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「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3−5)

折原 浩

2005216

 

 

 

第四節 「天を仰いで唾する」もヴェーバーに届かず――「火遊びは火傷のもと」(承前)

 

8.理念型の経験的妥当性と、その検証資料

 ヴェーバーは、フランクリンの「人柄」ではなく「経済志操」を、(その端的な表明として方法的に選び出した)二文書資料からの抜粋に依拠し、本節1.の冒頭に引用したとおり、「貨幣増殖を、個々人の『幸福』や『利益』にたいしては超越的、その意味で非合理的な、自己目的とも『最高善』とも見なし、そのようなものとして追求せよ、と要請する『経済倫理』」として、一面的に鋭く理念型的に定式化していた。ところで、そうした定式が、資料としての二文書抜粋に表明された意味内容の特徴的傾向を、相対的極限にまで「思考の上で高め、あるいは煮詰めて」えられる「(論理的)理想像」ではなくて、その資料には表明されていない質的に異なる意味内容を「外から持ち込んで」いるとすれば、それはそのかぎりで、資料の意味内容を「歪曲する」「妥当でない」定式化として棄却されなければならない。したがって、当の資料と定式とを付き合わせて意味上の(「一致」でなく)対応関係を検出することは、必要かつ重要なことである。ところが、この(フランクリンの「経済志操」の)ばあい、「貨幣増殖を『最高善』として要請する『経済倫理』」という趣旨の定式化は、「時は金なり」「信用は金なり」の二標語に象徴される二文書抜粋の意味内容には、質的に対応しており、「(量的)極限化」ではあっても、異質の意味を持ち込む「歪曲」ではなかった。羽入といえども、この対応関係は、殊更否認していない。

 ところが、羽入は、羽入書第三章第三節末尾で、上記の定式化を引用したうえ、「しかしながら、およそ楽天的で『幸福』とか『利益』というものに対して好意的と思われるフランクリンに対して、果たしてこのような『非合理的なことが言えるのであろうか」(176-7)と反問する。つまり、問われるべき意味内容したがって議論の対象を、フランクリンの「経済志操」から「(丸ごとの)フランクリン」に、鈍化させている。そして、直後に第四節に移るや、対象の鈍化に見合って、議論の土俵、したがって理念型の検証資料を、突如自伝にすり替える。ヴェーバー自身は、この定式化にかけては、『自伝』の叙述を「自分の主張の論拠とし」(177てはいなかったのであるが、羽入は、あたかもヴェーバーがそうしていたかのように決めてかかり、『自伝』中に(羽入のいう)「論拠」を捜し、「残念ながら見いださ[sic]ない」(177)と「判定」するのである。

 さて、この「判定」は、じつは誤りで、『自伝』中にも、歴然たる「論拠」(正確には、ヴェーバーの理念型的定式化に質的に対応する意味内容の叙述)が見いだされる。ただ、この対応関係の厳存という事実には、次稿(3−6)で立ち入ることとし、本稿ではまず、羽入が、第四節におけるヴェーバー論難を、この不当前提(議論の対象を、フランクリンの「経済志操」から「人柄一般」に鈍化させ、それに見合って議論の土俵を『自伝』にすり替えるという、ヴェーバー自身は関知せず、当該理念型の検証には不適当な前提)のうえに置いて、そこから出発させている、という事実を、確認しておかなければならない。なるほど、理念型といえども、本稿の前項で述べたとおり、あくまで経験科学の概念用具であり、その「経験的妥当性」が問われなければならない。むしろ、意図して一面的に鋭く構成された要素的理念型について、その「経験的妥当性」を検証するときにこそ、現実における対抗的要素が索出され、これと第一要素との動的均衡、したがって現実の変動傾向も、捉えられ、鮮明に定式化され、(要素的理念型複合としての)「歴史的個性体」概念のうちに包摂される[1]。とはいえ、そうした検証は、当の理念型に相応しいしかるべき資料に就いて試みられなければならない。「経済志操」に限定し、その一面性を自覚し、さればこそ鋭く構成されている理念型を、「人柄一般」に「つくりつけ」になっている「一義的」傾向(「およそ楽天的で『幸福』とか『利益』というものに対して好意的」云々)の概念的「反映」であるかに見誤り、非限定的で間口の広い(それだけ「人柄一般」については適当でもありうる)『自伝』資料に移し入れてもっぱらそこで検証しようというのでは、理念型の特質が無視され、その本領も長所も看過されざるをえまい。折角鋭く定式化された理念型も、(およそ「人柄」を構成する)多種多様な諸特徴/諸傾向のなかにいわば「呑み込まれ」、それだけ「影が薄れ」、あたかも「論拠(じつは質的対応関係)がない」かのように見紛われもしよう。羽入の論難は、理念型的方法にたいする無理解と、おそらくは「ヴェーバーの理念型的定式化をなんとしても葬り去ろう」という衝動とに鼓舞されて、無意識裡にも関説対象の鈍化と土俵のすり替えという不当前提を置き、そのうえに展開されているというほかはない。

 ただし、羽入の持ち出した『自伝』が、「経済倫理」にかんする鋭い理念型的定式化の検証資料として、全体としては「粗大」で不適当であるとしても、なおかつ、それを検証資料に見立て、当の対応関係を(羽入流「キーワード検索」の域を越えて)仔細に探索することはできる。そうすることによって、ヴェーバーの理念型的定式化に質的に対応する要素が、『自伝のなかにも(異質ないし対立する諸要素の多様な交錯ないし混沌のただなかから)発見されるかもしれない(し、じじつ次稿で詳述するとおり発見される)。そこで、筆者としては、羽入による鈍化とすり替えを暴露して「能事終われり」とするのではなく、当の不当前提のうえに展開されている議論そのものにはそれはそれとしてしばらく内在し、かれの「キーワード検索」の経緯と到達点を検討してみたい。そうすると、羽入の議論が、ここでもまた奇妙な「迂回路」を採り、すり替えと誤読を繰り返して「それとは知らず混迷の深みにはまっていく」行論に即して捉え返されると同時に、当の議論において羽入は見逃した対応要素が、羽入による論難そのものをとおしてほかならぬ自伝のなかに発見/挙示されるであろう。ヴェーバーによって構成された理念型の経験的妥当性が、一「批判者」の「反証」そのものによって、かえってそれだけ補強されることになるわけである。

 

 

9.ヴェーバーの「合理性」概念とその意義

 しかし、羽入書第三章第四/五節のそうした検討に入るまえに、羽入が上記引用文中で「非合理的」(177)という言葉を使っている事実に止目し、それを手掛かりに、かれの「合理性」理解を問題にしておきたい。周知のとおり「合理−非合理」とは、ヴェーバー歴史・社会科学の基本的な「嚮導概念(構想)generative conception」ともいえるものである。とすると、これにかんする羽入の用語法からは、「ヴェーバー通」をもって任ずる(12)かれが、はたしてそうした基本概念を的確に把握し、理解していたかどうか、が明らかにされよう。

 「倫理」論文中、羽入が引用した箇所には、確かに「非合理的」というヴェーバーの表記が見られる。羽入は、その語を抜き取って、ヴェーバーの理念型的定式化に投げ返しているのである。ところが、まさにその「非合理的」という表記の箇所には、K・レーヴィット[2]から最近の矢野善郎[3]にいたるまで、およそヴェーバーの「合理性」「合理主義」「合理化」概念に着目する論者にはきまって取り上げられ、仔細に論じられてきた、周知の注記が付されている。それはまたしても、L・ブレンターノにたいする反批判である。

「ブレンターノ……は、この表記を捕らえて、世俗内禁欲が人間のあいだに生み出した『合理化と規律』にかんする後段の叙述を批判している。そうした合理化は『非合理的生活irrationales Leben』への『合理化』になる、というのである。確かに[ある意味では]そのとおりだ。だが、問題はつねに、あることがそれ自体として『非合理的』かどうかではなく、特定の『合理的』観点から見て『非合理的』かどうか、にある。無信仰者には、宗教的な生き方がことごとく『非合理的』で、快楽主義者には、禁欲的な生き方がすべて『非合理的』であろう。ところが、宗教的また禁欲的な生き方も、それ自体の究極の価値を規準として測れば、ひとつの『合理化』でありうる。この論文になにか寄与するところがあるとすれば、『合理的なものの概念が(一義的と思えるのは、皮相な見方にとってのみで、それがじつは)多種多様であることを開示している点にあろう。[ブレンターノにとっても羽入にとっても]そうであってほしい。」(GAzRS, I, 35, 大塚訳、49-50、梶山訳/安藤編、96

 さて、この注記は、初版(1904)にはなく、改訂時(1920)に付され、『宗教社会学論集に収録されている[4]。ヴェーバーが「この論文(単数)」の寄与と見込んでいる「合理的なもの」の多義性も、「倫理」論文一篇というよりはむしろ、(普遍史的/世界史的なパースペクティーフのなかで多種多様な「経済倫理」を類例として比較し、同じく多種多様な「宗教性」との関連を問うている)続篇「世界宗教の経済倫理」シリーズ(「儒教(と道教)」「ヒンドゥー教と仏教」「古代ユダヤ教」)の全篇を相互に対比しながら読むとき、あるいはたとえ「倫理」論文一篇でも、シリーズ全篇との関連のなかでその一環として読むときに、初めて具体的に開示されよう。しかも、そのときには、そうした多義性に着目することの方法上方法論上の意義も、的確かつ十全に把握されるはずである。そこで、「世俗的な観点からは『合理的』な『宗教的生き方』についても『合理化』を語りうる」というこの注目すべき論点について、ヴェーバーの思想展開を――ここでは「触り」の部分を、続篇「世界宗教の経済倫理」「序論Einleitung」(1915)、同「中間考察」(1915)および(『宗教社会学論集』の)「序言Vorbemerkung」(1920)から拾って解説を加える、という形で――、点描してみるとしよう[5]

 「序論」で、ヴェーバーは、本論でとりあげる「世界宗教」の各々を「きわめて複雑な性質をそなえた歴史的個性体」(GAzRS, I, 265, 大塚/生松訳、79)と断り、つぎのような「類型論的方法の適用を予示している。

「そういうわけで、以下の論述はけっして、諸宗教の体系的『類型論』eine systematische »Typologie« der Religionenではない。さりとてもとより、純然たる歴史的研究でもない。むしろ、[ある文化圏の]経済志操と[他の文化圏の]それとのあいだに見られる大きな対立との関連で典型的に重要と考えられる諸点を、宗教倫理の歴史的現実態に即して考察し、それ以外の諸点は視野の外に置くという意味で『類型論的typologisch』といってよいものである。したがって、叙述の対象として取り上げるもろもろの宗教について、欠けるところのない十全な姿を描き出そうと要求[ないし僣称]するものではない。むしろ、他の宗教との対比においてそれぞれの宗教に独自なまた同時に、われわれが問題としている関連にとって重要な諸特徴をこそ、すぐれて前景に取り出して強調せざるをえない。そのように、あるものを前景に取り出し、他のあるものは後景にしりぞける、特別のパースペクティーフを抜きにして見れば、そうした諸特徴もしばしば、以下の論文で描き出されるよりもずっと緩和された姿をとり、他方ではかならずや、もっと別の特徴が付け加えられるであろう。」(GAzRS, I, 265, 大塚/生松訳、79-80

 ちなみに、この意味の「類型論的」方法は、一方では、諸宗教のみでなく、(同じく「歴史的個性体」として概念構成され、諸宗教との関連が問われるべき)「経済志操」にも、他方では、「世界宗教の経済倫理」シリーズのみでなく、(『宗教社会学論集』に収録され、補注を施されることによって「世界宗教の経済倫理」の方法水準にまで引き上げられている)「倫理」論文(改訂稿)にも、まったく同様に適用されている。「(近代)資本主義の精神」という(「経済志操」の一)「類型」についても、ヴェーバーは、「暫定的例示」のために選び出したフランクリン素材から、「フランクリンの経済志操」(ましてや「フランクリンの人柄一般」)の「欠けるところのない十全な姿を描き出そう」とは要求せず(そうした目標追求は「固有の意味におけるフランクリン研究」に委ね)、夥しい素材群のなかからただ、「フランクリンの経済志操」を他の(たとえばフッガーの)それと対比したばあい、フランクリンに独自で(後には、他のもろもろの文化圏に見られる「経済志操」と対比してみても稀有で)、また同時に、(資本蓄積の持続的駆動因としてはたらくという意味で)「(近代)資本主義の精神(経済志操)」として見ても重要relevant、「『貨幣増殖』を『最高善』として追求して止まない『経済倫理』」という一特徴のみを、意図して前景に取り出し、他の諸特徴は(当該節冒頭にもわざわざ「方法論的覚書」を寄せて断っていたとおり)意図して捨象するか、後景にしりぞけているのである。

 ただ羽入だけが、ヴェーバーのこの「類型論的」方法を理解せず、対比すべき他者も皆無の「井の中の蛙」視座に跼蹐したまま、(ヴェーバーにおいては)比較のパースペクティーフのなかで前景にとり出されている「独自(稀有)かつ重要な」特徴を、(不相応な資料としての)『自伝』から取り出された、(ヴェーバーにおいては方法上意図して後景にとどめられ、とどめられてしかるべき)多種多様な諸特徴と「一緒くたにして」は、ひたすら相対化/相殺し、鈍化させ、「否認」しようとする。その結果、なにか別の、注目に値する特徴づけがなされるのかといえば、そうではない。『自伝』から、「反証」のつもりで、やれ「借金を返すため」、やれ「子どもを育てるため」、やれ「立身出世のため」といった、それはそうにちがいないとしてもどこにでもあるそれゆえ、ヴェーバーの意味における「類型論的」定式化においては捨象されてしかるべき)動機を引き出してきては、「フランクリンの経済志操」に帰し、それで「反証」が成立したかのように思い込んで怪しまないのである。

 さて、当の「類型論的」方法を「世界宗教」に適用し、各々に「独自かつ重要な」諸特徴を取り出すといっても、この「重要な」諸特徴がまた無数にあるわけであるから、これについても「特定の観点から見て重要」という限定が必要とされる。このばあいヴェーバーは、(「経済倫理」一般ではなく)「経済上の合理主義」を関心の焦点とし、これとの関連にとって「重要」かいなか、という「特定の観点から」の限定を加える。したがって、ある宗教が、信徒にたいする宗教固有の「生活規制Lebensreglementierung」をとおして、当の信徒(やがては、「突破口」「第一先例」の模倣/慣習化という経過をへて、信徒の範囲を越える広汎な諸社会層)における経済活動の合理主義にも通じていくような「生き方の合理化Rationaliseirung der Lebensführung」をもたらすかどうか(もたらすとすれば、いかなる意味の「合理化」を、いかにしてどの程度までもたらすのか、逆に、もたらさないとすれば、いかにどの程度、阻止するのか)が「重要relevant」となる。ところが、この「生き方の合理化」が、もとよりまた、宗教ごとに多種多様である。

「ところで、経済倫理との関連で重要な、諸宗教の特徴といっても、このばあいわれわれが関心を向けるのは、本質的に、ある特定の観点からである。すなわち、当の特徴が、経済上の合理主義ökonomischer Rationalismus――それも(この『合理主義』という語の意味も、まだ一義的に確定されてはいないので、いっそう詳しく規定すれば)、1617世紀以降、ここ西洋を支配し始め、市民的な生活合理化の部分現象としてここ西洋には根を下ろした、そういう類型の『経済上の合理主義』――と、いかなる関連にあるのか、という特定の観点からである。こんなことをいうのも、『合理主義』という語にはきわめて多種多様な意味があるということを、ここでもういちどnoch einmal[改訂時追加]、思い起こしておいてほしいからである。……[中略:「理論的合理主義」と「実践的合理主義」、前者の二下位類型、の例示]……。われわれが以下の諸論文[「世界宗教の経済倫理」シリーズ]で取り上げる生き方の合理化もまた、おそろしく多種多様な形態をとりうる。儒教は、いっさいの形而上学を欠き、宗教的な根基の残滓もほとんど痕跡をとどめていないという意味で、およそ『宗教』倫理と呼びうるものの極限に達しており、きわめて合理主義的rationalistischであると同時に、功利性の規準以外の規準をまったく知らないか、ことごとく貶価するという意味では、きわめて醒めていて、この点で儒教と比肩しうる倫理体系といえば、J・ベンサムのそれ以外にはあるまいと思われるほどである。ところが儒教は、じつのところ、……実践的合理主義のベンサム的類型とも、西洋におけるそれ以外の全類型とも、おそろしく異なるものである。[つぎに]ルネッサンスの最高の芸術理想は、ある妥当な『美的比例Kanon』を信ずるという意味で『合理的rational』であったし、その人生観も、プラトン流神秘主義の混入成分を除けば、伝統的な束縛を拒否し、自然的理性naturalis ratioの力を信ずるという意味において合理主義的rationalistischであった。[さらに]禁断苦行ないしは呪術における禁欲Askeseや瞑想Kontemplationの技法も、たとえばヨーガとか、後期仏教の転輪蔵を用いる祈祷のように、徹底した形態をとるばあいには、これまたまったく別の意味、つまり『計画性Planmäßigkeit』という意味で、『合理的』であった。また[最後には]、一般に組織的かつ一義的に不変の救済目標をめざす、あらゆる種類の実践倫理は、片や形式的方法性という[計画性と]同じ意味で、片や、規範的に『妥当するもの』と経験的に与えられたものとを区別するという意味で、『合理的』であった。ところで、われわれが以下で関心を向けるのは、この最後に挙げた種類の合理化過程にほかならない。」(GAzRS, I, 265-6, 大塚/生松訳、80-2

 このようにヴェーバーは、「合理主義」につき、まず「理論的合理主義」と「実践的合理主義」とを区別し、後者すなわち「生き方の合理化」にかぎって、儒教、ベンサム的功利主義、ルネッサンス(といった、世俗的で現世肯定的な形態)から、禁断苦行や呪術における禁欲と瞑想の徹底形態をへて、「救済宗教」における組織的な救済追求道(「救済」のために現世を拒否する宗教形態)にいたる「合理主義」の多義性/「合理化」の多種多様性を、つぎつぎに例示している。そのうえで、この「世界宗教の経済倫理」シリーズでは、「最後に挙げた」組織的救済追求の「合理化過程」を取り上げるといって、とりあえず課題を限定し、そのあとすぐ、「ここで、そうした合理化過程の決疑論[ありうべき諸事例を網羅するカタログ]をまえもって構成する」という企図に言及はする。しかし、「これら諸論文の叙述自体が、まさしくそうした決疑論への一寄与たらんとするものであるから、まえもって決疑論を提示するのは無意味であろう」として、「合理化」概念の決疑論的な開示と(その意味における体系的な)定式化(「合理主義」の類型論/社会学)は、ここでは断念している(未完に終わる)。

  しかし、この箇所だけでもですでに、(禁欲はともかく)呪術や瞑想についてまで「合理化」を語りうるとほかならぬヴェーバーが明言している事実に出会って、わが目を疑う人も少なくないのではないか。というのも、当のヴェーバーが「西洋文化圏においてのみ『合理化』が進展し、他の文化圏では停滞した」という趣旨の(西洋中心主義的/排他的)「合理化論」ないし「合理化史観」を唱えたかのように教えられ、そのまま信ずるか、あるいは逆に、そうした「西洋中心主義」に反発するあまり「同位対立「自文化中心主義Ethnozentrismus」(ないしは、これと「同位対立性を共有する「反西洋主義 Anti-Okzidentalismus」の諸形態[6])に追い込まれるか、いずれにせよ「合理化」を、ある文化圏の歴史総体ないし総体的過程に「つくりつけ」になっている一義的傾向を表示する概念、しかも価値概念であるかに解する向きが、まだあとを絶たないと思われるからである。

 ところが、そうした解釈はじつは、ヴェーバー自身の「合理化」論ないしは巨視的比較宗教文化社会学の視座と方法にかんする(これ以上は考えようもないほど)粗野な誤解曲解である。この比較文化社会学はむしろ、「合理化」の多義性をいわば逆手にとって「嚮導概念(構想)」とし、ある文化圏では、どんな領域が、いかなる方向に「合理化」されたのか、と問い、さまざまな「合理化」の極限/遡行極限にさまざまの「非合理的なものを索出しながら、さまざまな「合理−非合理」関係の領域別の組み合わせを究明して、各文化圏の文化史上の特質を概念的理論的に把握していこうとする。たとえば、インド文化圏について、「中間考察」の冒頭には、つぎのような叙述がある。「われわれがこれから考察しようとするインドの宗教は、中国とは顕著な対照をなして、かつてこの地上に出現した宗教倫理のうちで理論的にも実践的にももっとも徹底した現世否定の諸形態を生み出したばかりではない。そこでは、それに照応する『技術』も、最高度に発展をとげた。修行(修道)生活や、禁欲と瞑想の典型的な技法は、ここインドの宗教のなかに、もっとも早く姿を現わしただけではなく、そこで首尾一貫した形にまで仕上げられた。そして歴史的にも、こうした合理化は、ここを起点として全世界に広まっていったと見てよい。」(GAzRS, I, 536, 大塚/生松訳、99

 ヴェーバーはこのように、インド文化圏については基本的に、「宗教という領域が、現世否定と瞑想(副次的/異端的には禁欲)の方向に『合理化』され、この点がこの文化圏の(文化史上の)『類型的特徴』をなしている」と見る。そして、この「中間考察」につづく「ヒンドゥー教と仏教」本論では、「歴史上、インド文化圏ではなぜ、かくなって、他とはならなかったのか」、また「そうなったことが、この文化圏の歴史的運命を、どのように規定してきたのか」を、(西洋文化圏の類型的特徴と歴史的運命との比較において)究明するのである。とすれば、他の文化圏についても、これと同じように問いかけ、探究の方針とすることができるのではあるまいか。

「この『合理主義』という語は、……きわめてさまざまな意味に解することができる。たとえば神秘主義的瞑想というような、他の生活領域からみればすぐれて『非合理的』な営みも、経済/技術/学問研究/教育/戦争/司法および行政の合理化とまったく同様に『合理化』されうるのである。さらに、こうした生活領域のひとつひとつもすべて、それぞれきわめて多種多様な究極の観点ないしは目標のもとに『合理化』されうるのであり、しかも、あるひとつの観点ないし目標から見て『合理的』なものは、別の観点ないし目標から見ると『非合理的』でありうる。したがって、すべての文化圏では、さまざまな生活領域が、きわめてさまざまな仕方で合理化された。すべての文化圏の、文化史上における差異を特徴づけているのは、なによりもまず、いかなる領域が、いかなる方向に向かって合理化されたのか、ということである。」(GAzRS, I, 11-2, 大塚/生松訳、22-3

 このとおりヴェーバー自身においては、「合理化」とは、ある文化圏に「つくりつけの」一義的傾向を表示する一義的概念といったものではなかった。いわんや、なんらかの「合理化」を、自分の属する文化圏の排他的特徴として、他文化圏にまさる価値増大の過程として誇示しようとする「自文化中心主義」(「粉飾を凝らしたお国自慢」)の指標/指数ではなかった。まったく逆に、自文化圏の現状と将来にたいする危機感と憂慮に発し、普遍史/世界史における人間の運命の多様性に大いなる共感を寄せながら、自文化圏を、まずはありうべき文化形態のひとつとして相対化し、多様な文化発展のなかに位置づけつつ、その来し方/行く末を見定めようとする、開かれた知的学問的営為の「嚮導概念(構想)」であった。

 ちなみに、そのばあいなぜ、他の概念ではなく「合理化」が選ばれ、「嚮導概念(構想)」に据えられるのかといえば、「理ratio」は「明証性」が高く、それを手掛かりとすれば、他の異質な文化圏にも入りやすく、「明証性」をそなえた「解明」を極限まで貫徹させることができる。また、どの文化圏のどの領域も、もとより、そのように「解明」していけば「合理的に割り切れる」というものではなく、さまざまな「非合理性」を(おそらくは核心部分に)包蔵しているにちがいないけれども、そうした「非合理的なもの」は、直観的に把握され、直接的に叙述されるよりもむしろ、「合理的なものを媒介として、「合理化」の極限また遡行極限として、知的かつ(最大限に)客観的に把握され、叙述されるであろう。少なくとも学問としては、そうした方針を採用して進む以外にはない。およそこうした思念が、さきほどからの点描をとおしても明らかなとおり、ヴェーバー自身のオリジナルな構想であった。

 ところが、こうした構想は、(それ自体として未完成であったことを別としても)そのままの志向方向性スタンス形姿体温においては継承されなかった。継承者のおかれている文化史的社会的状況に応じて、主として政治の影響を被り、誤解され、曲解された。そうした誤解/曲解がいまなお根強く生き残っている事実にも、それはそれとして相応の根拠があろう。

 

 

10. ヴェーバーの学問的業績にたいする「戦後近代主義」の誤解/曲解

 ここで、試みにパラダイムを変え、管見を述べよう。

 ここ二/三世紀間に、西洋近代文明/文化の影響にさらされてそれぞれの伝統を揺るがされた非西洋諸地域、すなわち(イギリスの植民地支配を受けてカースト秩序が揺らぎ始めて以来のインド、ピョートル改革以後のロシア、阿片戦争以降の中国、幕末このかたの日本など)西洋近代文明の外縁マージナルエリアには、「(圧倒的に優勢な)異文明の電流を導入するために電圧を下げるトランス」の役割を担う「連絡将校」として、西洋的教養を取得した「インテリゲンツィア」(AJ・トインビー)が養成され、一階層に形成された。そして、「マージナル・マン」(パーク/ストーンクィスト)として多少とも「根無し草 déracinés」(自国の社会構造に堅固な根はおろさない「自由浮動」層)となるかれらは、第一次的には、西洋近代文明/文化にたいして「過同調」の「西洋派」「西洋主義」のスタンスをとるか、それとも逆に、「反動形成」によって「自文化中心主義」に立て籠もる――あるいは(「西洋派」にたいする「同位対立としては等価の)なんらかの「反西洋主義」に反転する――か、の態度決定を迫られ、いずれにせよ双方の「同位対立」関係(たとえばロシアや日本における「西欧派」と「スラヴ派」「国粋派」との対立)に陥る。ここでは、西洋から移入される観念形象のすべてが、こうした同位対立の磁場に吸い寄せられて相応の変容を被ることにならざるをえない。

 戦後日本の「近代主義」も、太平洋戦争の開始と敗北を、一方では生産力における劣位、他方では民主主義(と民主主義を担うべき自立的「個人」)の欠如に帰し、双方を再度「西洋近代」をモデルに見立てて学び直し、補強しよう(相手の武器を逆手にとって対抗しよう)という「ヘロデ主義」戦略の戦後版であった(たとえば「大塚近代化論」は「ヘロデ主義的生産力説」として特徴づけられよう)。表向きはともかく、深層では、そうした側面を色濃く帯びていた。しかも、論者の多くは、大塚を初め、マルクス主義の単線的進歩(発展段階)図式(世俗化されたキリスト教的終末論)を、折衷的にせよ受け入れていた(し、いまなお「尻尾を引きずっている」人もいる)。したがって、「西洋近代」と戦後日本の「現状」とを時間軸上に並べ、前者を「比較の準拠枠」として後者の「遅れ」ないし「(跛行性という含意における)特殊性」を剔抉するという発想に引き寄せられ、これにたいする反動としても「後進国における思想の優位」が唱えられる始末であった。一方では「西洋文化圏」(とくに「西洋近代」)と「日本」(とくに「幕末このかたの日本」)とを、ひとまず相異なる文化類型として措定し、比較によって双方の異同を問い、相互に特質づけると同時に、他方ではむしろ、後者を上記(「西洋近代」の)外縁「マージナル・エリア」群のひとつに見立て、「西洋近代」にたいする群に共通の「文化葛藤」の諸相を類例として比較し、そうした二重の比較をとおして辺境革命」「(文明中心の)辺境移動の可能性を探索し、翻っては「西洋近代」にたいする(「文化類型」として独自かつ普遍的な)対応の可能性を探り出していこうとする発想[7]には、なかなか到達できなかった(し、到達しても、それをパラダイムとして活かし、発想を転換するまでにはいたらなかった)。ところが、ヴェーバーが「倫理」論文以降の思想展開をへて到達した地平は、まさにこうした発想に連なり、かれの巨視的比較文化社会学の視座と方法は、(それ自体としては未完ながら)この発想を学問的に展開していくのに打って付けの質と内実をそなえている。かりにヴェーバーが戦後日本に生きていたとすれば、かならずやこうした発想にもとづいて、いちはやく独自の内容ある巨視的比較文化社会学を構築していたにちがいない、と思えるくらいである。

 しかし、「戦後第一世代」に属する筆者は、そうした地平に到達するのに、戦後政治および(政治的色彩の濃厚な)「島国日本の学界/ジャーナリズム複合体制(コンプレクス)」に制約された「戦後近代主義」のヴェーバー解釈、とりわけ上記の誤解/曲解を、もっぱら学問的に批判し、そうした先入観を排してヴェーバーの言説そのものを文献学的に厳密に解読する地道な学問的基礎研究を重ねなければならなかった。「戦後近代主義」のヴェーバー解釈は、近代(資本主義)的生産力の担い手としての勤労意欲の高い自立的個人と、そうした個人間の契約関係として自発的に創出され制御される(べき)近代市民社会また近代国家の「理念(型)」を、主として倫理論文に依拠して、西洋における歴史的発展過程から抽出し、観念/思想上で「剥離」させ、それを同時に価値理念として固定化理想化し、この価値理念/理想に照らして、日本人と日本社会との「近代的」ならざる側面を批判し、批判的に乗り越えようとした。こうした思想的ヘロデ主義のパースペクティーフでは、「合理化」は「合理的生産力と合理的市民社会また合理的国家への合理化」として実体化また狭隘化される。他方、そうした立場決定からは、ヴェーバーの膨大な学問的業績/著作中、もっぱら倫理論文が、いわば「戦後近代主義の『聖典』」として偏重されざるをえない。ヴェーバー自身においては、「倫理」論文は、それ以降の巨視的比較宗教社会学研究総体へのいわば「問題提起的序章にすぎないとさえいえる。ところが、「戦後近代主義」のパースペクティーフでは、その関係が逆転され、序章が前景に取り出されて偏重されるあまり、本論総体が顧みられないばかりか、序章が本論から翻って再解釈されることもない。したがって、「倫理」論文それ自体の読解も、その意味では深められなかった。政治が(たとえ政治価値自体としては肯定的なものでも、政治であるかぎり、むしろ肯定的であればあるほどかえって)学問を制約して学問の価値自由な発展を妨げいかにその停滞を招くか、を鮮やかに示している生々しい実例といえよう。

 ところで、「戦後近代主義」のパースペクティーフでは、「倫理」論文が偏重されるあまり、その読解自体が深められないばかりではない。そのうえ、その読み方も相応の偏向を被り、皮相に流れざるをえない。テクストから読み取った意味内容を政治目的に利用しようという想念に凝り固まった「政治人間」は、先を急いで「テクストの上っ面をかすめ」、「結果を出そう」と焦るものである。そういう人は、著者ヴェーバーがなぜ「倫理」論文を執筆するにいたったのか、その原問題設定と生活史的/根源的動機に遡り、そこから全篇を再解釈し、結果として書き上げられた章節の細部や行間にも「人間ドキュメント」としての息吹を感得し、その陰影を読み取ろうなどとは、つゆ思わない。ヴェーバーが西洋近代の「職業義務観」を、その深みにまで穿ち入って問題とすることができたのは、かれがそれに実存として苦しみぬいたからである[8]が、「戦後近代主義」の解釈では、そんなことはどうでもよい。むしろ近代的「経営Betrieb」の「職業的」分業−協業体制が、近代(資本主義のみでなく、文化諸形象)一般の高い生産力/生産性を保障する基幹編制であったという一面の認識から、「まさにそれゆえ、ヴェーバーは、そうした編制とそれを支えるエートスの歴史的淵源を探究しようとしたのだ」というふうに、自分たちの意義づけ(自体は自由であるが、それをその限界内にはとどめておかず、むしろそれ)を、好都合にもヴェーバーの執筆動機にまで読み込んで、捩じ曲げてしまう。すべてこの調子で、政治的評価に彩られた事後解釈がまかり通る。そうした二次所見を排しヴェーバー自身のテクストに沈潜してかれの人と学問そのものに迫ろうとする研究者はごくわずかしかいない。むしろさながら、政治空間で、二次文献の「空中戦」が演じられているようだ。そういう皮相な読解水準では、ヴェーバーにとっての苦悩の種がバラ色に描き出され、かれは問題にしたことが反対に規範化/理想化され、相対化したことが逆に実体化/絶対化される。粗野な誤解/曲解も怪しむに足りない。そうした誤解/曲解にたいして華々しい「批判」が打ち上げられても、所詮は「同じ穴のむじな」で、価値符号を逆転させた政治主義的「同位対立」の域を出ない。ところが、この「島国日本の学界/ジャーナリズム複合体制(コンプレクス)」のなかでは、その種の政治主義的論策が、「たんなる『ヴェーバー研究』ではない」などと評され、称揚されるのである。

 1960年代には、アメリカの研究者による日本「近代化」の研究、たとえばロバート・ベラーの『徳川宗教』が輸入され、翻訳され、一時期流行をみた。しかしそれは、ヴェーバー歴史・社会科学の方法(すなわち、「現実(歴史)科学」と「法則科学」との緊張のうえに成り立つ)「類型論的」方法を継承することなく、「倫理」論文に書き上げられた結果だけを(T・パーソンズの流儀にならって)「法則科学」的な図式に組み換え、ピューリタニズムの「機能的等価物」を江戸期の石門心学に探るという代物であった。したがって当然、「倫理」論文しか顧慮せず、「ヒンドゥー教と仏教」の第三章に収録されているヴェーバーの日本論さえ射程に入れていない。しかも、ベラーのパースペクティーフは、「近代化」の頂点にアメリカ社会を据え、そこから歴史を俯瞰して「成功物語success story」として単線的「進化」を組み立て、他地域における「逸脱」「偏向」を問題にするという発想で、(当人は意識していないと思うが、そのじつ)救いがたい「自文化中心主義」というほかはなかった。文化史的/知識社会学的に穿っていえば、この観念形態は、「冷戦体制」下に(西欧文明圏の)「世界国家」「世国帝国」(トインビー)にのし上がった「(西欧の)新興国」アメリカの(「成り上がりparvenu」の「過補償」動機と入り交じった)「思い上がり/倨傲hubris 」から、そのヘゲモニーと世界政策を文化史的に「正当化」しようとし、そうした政治的観点から、ヴェーバーの学問的業績のごく一部分を手っとり早く利用した産物にすぎない。

 ヨーロッパにおけるR・アロン以来のヴェーバー解釈も、形式的には考察範囲を「世界宗教の経済倫理」にまで拡大はしたものの、実質的には、「世界宗教」を「プロテスタンティズム・テーゼの比較史的追検証としてしか取り扱えなかった。という意味は、こうである。その解釈によれば、「世界宗教」論文とは、「(一方の)禁欲的プロテスタンティズムないしはその機能的等価物(「世俗内禁欲」類型の宗教/宗教倫理)を欠く(『対照群』としての、非西洋)諸文化圏では、(他方の)資本主義の『精神』も自生的endogenには発生/発展しなかったのかどうか」と問い、裏側から「西洋文化圏では、前者があったからこそ、後者も発生した」との因果命題を導こうとする「比較対照試験」に相当する。つまり、前者と後者との関係につき、「倫理」論文かぎりでは「明証的」に「解明」された「意味連関」にとどまる「プロテスタンティズム・テーゼ」を、この「比較対照試験」によって、「明証的」であるとともに「経験的に妥当」でもある「意味・因果連関」にまで、方法(自覚)的に練り上げていこうとする作業である、というのである。この解釈は、一面では正しい。というよりも、その提出が1930年代であったことを思えば、ヴェーバー歴史・社会科学方法論の要にある「(経験科学としての)因果帰属の論理」を(「実験」「比較対照試験」の論理の、非実験的対象群への適用として)的確に捉え、これと「世界宗教」論文の内容とを結びつけて、ヴェーバーの研究成果をかれの方法論によってよくぞ説明したものと評価されよう。しかし他面、この解釈では、ヴェーバーの思想内容の発展は、かれが当の「プロテスタンティズム・テーゼ」に到達した190405年段階で金輪際停止し、その後の15年間はその形式的方法的補強にのみ費やされた、ということにならざるをえない。とすると、この解釈もまた、「倫理論文中心の狭隘化を免れてはいないことになる。それ以降に書き継がれた「世界宗教の経済倫理」に独自の内容上の寄与を、いっさい捨象し、その意義を方法的操作に還元してしまっているからである。

  しかしながら、ヴェーバーほどの独創的な思想家が、15年間も思索の成果を論文として発表しつづけながら、内容上の前進や深化はとげず、ただ方法上足踏みをしていただけ、というようなことが、およそありえようか。むしろ「世界宗教」には、方法上の大掛かりな「迂回路」には還元できない、固有の意義をもつ内容上の寄与が、開示されているのではあるまいか。とすれば、この問いにたいする解答のうち、もっとも重要と思われるひとつこそ、「合理化」の多義性への(その方法上の意義への)着眼、したがって当の多義性を逆手にとる「合理−非合理」関係具体的究明、および、そうした多義的合理化嚮導概念(構想)」とする巨視的比較文化社会学への学問的な視座と方法の再編制と整備、これである。

 さて、前世紀の「ヴェーバー研究」は、1950年代の後半から、ヴェーバーの作品/業績にかんする「全体像構築を、意図し顕示してめざす時代に入った。しかし、その先駆けとなった金子栄一『マックス・ウェーバー研究――比較の学としての社会学』(1957、創文社)も、R・ベンディクス『マックス・ウェーバー――その学問の包括的一肖像』(1960, 2. ed. 1962, New York、拙訳、1966、中央公論社、改訳、上下、198788、三一書房)も、ともに優れた労作ではあったが、肝心のこの問題にかけては、アロンに追随し、「世界宗教の経済倫理」と(その方法水準に「倫理」論文も引き上げている)『宗教社会学論集』全体の意義については、新解釈/新展開を示さなかった。かれらの「全体像」にたいしては、ヴェーバー自身の思想展開に沿ってテクストを再読しての再構築が、求められようし、求められなければならない。

 この点にかんして、ひとつの画期をなしたのが、「マックス・ヴェーバーの業績」(1975)、「『経済と社会』との訣別」(1977)と題する、FH・テンブルックの挑戦的な二論文であった。テンブルックは、「倫理」論文から「世界宗教」にかけての視圏の飛躍的拡大とその主題的意義という、ヴェーバーの学問的業績の核心に触れる問題を、正面から取り上げると同時に、解釈の空転を戒めて厳密にテクストに就くことを要請し、「外から」なんらかの立場を持ち込んではヴェーバーの学問的業績を断片的/政治的に利用しようとする(飽くことなく繰り返される)企てに終止符を打とうとした。テンブルックのこの挑戦には、ただちにその意義を認めて、W・シュルフターと筆者が応戦した。才気煥発なテンブルックの業績は、確かにテクストへの徹底した内在をくぐり抜け、かれならではの鋭い主張として提示されている。しかし、筆者から見ると、しばしばあまりにも思い入れが激しく、賛同の域を通り越してしまうばあいがある。「『経済と社会』との訣別」の主張にしても、画期的ながら一面的にすぎ、筆者はテンブルックの「訣別とも訣別」して「再構成」に進み、かれにたいする批判を展開すると同時に、(同じくテンブルックにたいして一面では批判的な)シュルフターとも論争関係に入っている。ただ、そうするなかで筆者は、少なくとも故テンブルックとシュルフターに代表される現代ドイツ、ならびに(それと対抗的に提携できるまでになった)現代日本のヴェーバー研究は、テクストそれも(ヴェーバーの膨大な著作のすべてとはいわないまでも、『宗教社会学論集』と『経済と社会』などの)主要著作に内在して周到に立論する手堅い学問的研究水準にまで到達し[9]もう後戻りはできない、との感触をえている。

 

 今後の課題は、その水準で、(ヴェーバーにおける「法則科学」としての社会学の主著)『経済と社会』を、かれ自身の構想に即して再構成し、『全集』版の再編纂(したがって全世界のヴェーバー研究にたいする信憑性ある基本テクストの提供)に寄与すると同時に、『宗教社会学論集』を、「現実(歴史)科学」と「法則科学」との緊張のうえに成り立つ「類型論的」方法の適用/展開例として(完結した「第三巻」までを)厳密に読解し、加えては、未完の「原始キリスト教」「イスラム教」「ローマ・カトリック教会と東方教会のキリスト教」などの欠落をつとめて埋め、出発点「プロテスタンティズム」に立ち帰って、ヴェーバーにおける普遍史的/世界史的探究の「円環を閉じる」と同時に、われわれ自身によるその創造的展開の方途を探ることにあろう。

  そこでわれわれは、「西洋近代」と「幕末このかたの日本」という対比はしばらくおき、試みに上掲のパラダイム変換を踏まえ、前者の外縁「マージナル・エリア」群のうちでももっとも豊穣な展開をとげそれゆえもっとも示唆に富む(と思われる)19世紀ロシアを、類例としての対照項に選び、そこにおける思想の展開と到達点をとして、「日本の思想状況を照らし返してみることにしよう。

 19世紀ロシアでは、「西欧」と「ロシア」が時間軸上に並べられ、「先進−後進」との位置づけのもとに優劣が論じられ、後者が「遅れた地域」「停滞した文化」として貶価されるばかりではなかった。外縁「マージナル・エリア」群に共通の「西欧派zapadnik」と「スラヴ派slavyanaphil」との対立が、(後者が「心情」の域を脱して「思想」形成力を取得したこともあって)論争として繰り広げられまさにそれゆえ対極の狭間にある自由が活かされ相互補完的なふたつの発想が生まれた。ひとつは、「西欧」と「ロシア」を、ひとまず対等な「文化類型」とみなし、他の諸類型も射程に入れ、類型間の比較をとおして、類型に共通の発生/発展/没落のパターンを突き止めようとしたり、あるいは類型に固有の特質を探り出そうとする発想である。この発想は、1860年代に、いちはやくN・ダニレフスキーの比較文明論に結実し、第一次世界大戦後になってから、ドイツのO・シュペングラーやアルフレート・ヴェーバー(ら「ドイツ文化社会学」)、イギリスのトインビーに引き継がれた(「西欧文化圏」の「新興国」アメリカでは、ハーバード大学でP・ソーロキンが孤軍奮闘していたが、パーソンズの「行為の一般理論」「社会体系論」に凌駕された。まことに象徴的である)。

  他方、当時のロシアでは、およそ地表上に存立したもろもろの文化のありように関心が広がるのと並行して、(歴史のなかでは類型ごとの多様な個性に分化して現われてくるのは当然としても)どの類型にも共通の普遍的な根拠と、その根拠が「発展と没落のパターン」とどう関連しているのか、いわば諸文明の興亡を規定してきた、人間文化人間存在の究極の根拠根基Radixを問うという関心の深まりも生じた。これは、トルストイとドストエフスキーの文学作品にこよなく形象化されるとともに、ソロヴィヨフの哲学に最深最奥の表現を見いだし、前世紀には亡命者N・ベルジャエフの思想に引き継がれている。しかし、こうした思想発展も、191710月革命とその後のレーニン/スターリン独裁体制において、政治への従属を余儀なくされ、萌芽のうちに圧殺され、歴史の一齣の(ただし、それ自体として、殊にわれわれにとって大いに「知るに値する」)エピソードに終わった。

  このエピソードを「鏡」に(類例比較の一項として)、「幕末このかたの日本」を照射し返す研究課題は、それ自体、ヴェーバー巨視的比較文化社会学の応用問題に属し、その内容的展開は今後の世代に期待するよりほかはない。ただ視角提供者として、仮説というよりはむしろ予先観念を一言述べて「議論の誘い水」にすることを許されるとすれば、単刀直入にいって、「日本」では、「ロシア」における「西欧派」と「スラヴ派」の対立に比肩すべき、「欧米派」と「国粋派」との対立が、論争を嫌う島国の文化風土に全般的に影響されて双方(とりわけ「国粋派」)思想形成力が脆弱なため、「思想のレヴェルにおける公然たる対決の形をとらず、むしろ「思想心情の暗闘として燻りつづけ、つねに、機をみては政治勢力と結託してヘゲモニーを握ろうとする(フェアならざる)傾向が幅を利かしているのではなかろうか。ということは、なかなか「思想」上の「対極間関係」が確立されず、「マージナル・マン」として「対極の狭間にある自由」を活かそうにも、出発点/初期条件が形成されないということであろう。したがって、19世紀ロシアで、「西欧派」と「スラヴ派」という両対極間に生じた関心の広がりが、ダニレフスキー型の(あるいは、それとの間に「哲学的同時代性philosophical contemporaneousness」が認められるような)比較文明論を独自に生み出すとか、それを引き継いで独自に展開するといった動きにまではいたらなかった。ただ、関心の深まりのほうは、なぜか(むしろ「西欧「日本」の両「対極の狭間」で自由な思索が刺激されたためか)顕著に進展し、西田哲学を引き継いだ滝沢克己が、K・バルトのキリスト教神学を内在的に越え、キリスト教にも仏教にも通底する人間存在の究極の原点として、「神と人間の不可分・不可同・不可逆の原関係」を突き止めるにいたった。その普遍神学は、(「不可逆」の把握に弱く、神秘主義に傾いている)ソロヴィヨフに比しても、徹底している。西洋近代文明/文化の外縁「マージナル・エリア」の一隅で、そこに固有の「文化葛藤」の「苦悩に学び」(トインビー)、19世紀ロシアにおける思想展開に対応する並走の頂点到達点として(この関係は、滝沢自身には意識されていなかったと思うが)、西洋近代文明の「辺境」から「人類文明」の世代を担うべき「高等宗教」(トインビー)の思想的基礎が据えられた、といえるのではあるまいか。

 科学者は一般に、こうした関心の深まり根源志向には疎く、人間存在の外的諸条件にかかわる現象と現象の推移に関心を奪われがちである。他方、哲学者/神学者は、「肝要なひとこと」に集中/没頭して、現象を顧みない。しかし、両者は本来、相互媒介の関係を保つべきではないのか。そうでなければ、たとえば社会科学者は、なにを究極の拠り所として、「西洋近代」への「過同調」(ないしはその「偶像化」)と、「同位対立」の「自文化」または(なんらかの)「非西洋文化」への「過同調」(ないしはその「偶像化」)を、ともに克服し、あの(「同位対立」を強いる)「磁場から脱却して、「価値自由」に思考していくべきか、皆目分からず、あたかも「糸の端を止めずに闇雲に縫い針を動かす」ような仕儀となって、われ知らず徒労に耽りつづけるほかはあるまい。

  19世紀ロシア思想においては、関心の拡大と深化とが、相即的に進展し、ただその双極として、ダニレフスキー型の比較文明論とソロヴィヨフの思想とが成立したように思われる。ヴェーバーにおいては、書き残された作品から見るかぎり、明らかに関心の拡大のほうが前景に現われ、ダニレフスキー型の比較文化類型学、しかも(全類型に共通の普遍的パターンや根拠よりも)各類型ごとの特質を類例比較によって探り出す方向に研究が進められた。さればこそ、その成果は、われわれが(その「潜在的可能性Potenz」も含めて)継受し、そうすることによって同時に、外縁「マージナル・エリア」におけるわれわれの並走の「(ダニレフスキー型比較文明論の独自の展開がないという)欠落」を埋め、「東西文明の狭間」という独特の「位置価」を活かして、いっそう普遍的な巨視的比較文化社会学ないし比較文明論を構築していく学問的媒体ともなりえよう。

  とはいえ、ヴェーバー自身において、そうした関心の拡大に、関心の深まりのほうは追いつかなかったのか、前者に圧倒され、圧殺されてしまったのか、というと、けっしてそうとは思えない。ただかれは、「自分は、(経験科学の自己反省として必要な認識論/方法論ではなくて)人生の意義を思弁によって説く哲学者(もしくは神学者)ではない」という自己規定/自己規制から、その種の教説を直接開陳することはなく、「そっと胸にしまっておいた」(GAzRS, I, 14, 大塚/生松訳、26-7)のであろう。しかし、「人類の運命の歩みは、その断片を垣間見る者の胸に感動の荒波を掻き立てて止まない」(同、26)とふと漏らしたかれが、「人類の運命」への関心の広がりと相即する関心の深まりは経験せず、間接にも説き明かさなかったとは、とうてい考えられない[10]

  いずれにせよ、われわれとしては、滝沢における普遍神学生成の意義を、十分に踏まえて、そのうえに、ヴェーバーの(未完の)巨視的比較文化社会学を継受していっそうよく研究し、それを「学問的媒体」として自前の比較文明論を構築していくと同時に、折角の滝沢普遍神学を、経験科学への展開と相互媒介から切り離して「動脈硬化」に陥れかねない(滝沢も警告していた、ありうべき)「哲学者の驕り」からは、絶えず解放していかなければならない。滝沢の普遍神学とヴェーバーの巨視的比較文化社会学、このふたつこそ、今後、西洋近代文明/文化の外縁「マージナル・エリア」にして「東西文化の狭間」という「位置価」に恵まれた日本の国民文化を、独善に陥らずに健やかに形成していく学問的媒体となるであろうし、ぜひともそうしていきたいものと思う。

 

 さて、一語「非合理的」の(羽入書第三章第三節末尾に見られる)用例から、ヴェーバーの「合理化」概念の多義性、その方法上/方法論上の意義、この「合理化」概念にかんする(あるいは広くヴェーバーの学問的業績一般にかんする)「戦後近代主義」の誤解/曲解、これにたいする積極的批判、そして今後のヴェーバー研究/巨視的比較文化社会学研究の課題とこれに寄せられる期待へと、「補説Exkurs」を重ねて、ずいぶん遠くまで歩いてきてしまった。問題は、ヴェーバーが、「合理的なるもの」の多義性を前提に、「貨幣増殖を『最高善』として禁欲的に追求する(独自かつ重要な)『経済倫理』」を、近代資本主義における合理的営利追求の観点からはもとより、特定の禁欲的宗教性における究極的価値観点からも『合理的』という含意のもとに、さればこそ「快楽主義や幸福主義という別の価値観点からは合理的』」と限定的に特徴づけていたところを、羽入が、そこから「非合理的」という言葉だけを抜き取って、その前提には無頓着に、フランクリンの経済倫理にかんするヴェーバーの理念型的特徴づけに投げつけ、「見当外れ」「理に合わない」「ナンセンス」といった否定的価値評価を籠めて、まるごと非合理的」と決めつけたところにあった。つまり羽入は、フランクリンの「経済志操」ではなく「人柄」を、「楽天的で『幸福』とか『利益』というものに対して好意的」(176)という一面において、つまり「幸福主義」ないし「快楽主義」という特定の価値観点からは「合理的」な「人柄」として特徴づけようとする(それはそれで結構である)が、当の特徴づけを、羽入の価値観点からする一面的な特徴づけとして相対化して捉え返すことができず、「およそ楽天的で『幸福』とか『利益』というものに対して好意的」と、なにかフランクリンその人につくりつけになっている」特徴であるかのように実体化絶対化している。そのために、フランクリンが、確かに「楽天的で『幸福』とか『利益』というものに対して好意的」であったにもかかわらず、「経済志操」を語り出すや、「時は金なり」「信用は金なり」と口を酸っぱくして説き、幸福主義や快楽主義の観点からは非合理的(と同時に、まさにそれだけ近代資本主義的貨幣増殖/資本蓄積にとっては「合理的」な)「禁欲」を要請する一面をもそなえていた事実と、この側面にかんするヴェーバーの正確な(「合理的」「非合理的」という語を、それぞれの観点被制約性に即して限定して使っている)理念型的定式化とを、捉えようにも捉えきれないのである。

 すなわち、羽入は(羽入書第一/二章で見たとおり「犯行現場」と思い込むや、あれほど微小な注記にこだわって止まないのに)、この箇所の(ヴェーバー研究史上看過すべからざる)重要な注記は、見落としたのか、読んでいても意味が分からなかったのか、ヴェーバーの警告にもかかわらず、ブレンターノ流の「皮相な見方」に後退しており、そこから一歩も出ていない。当然、K・レーヴィットから矢野善郎にいたる全問題展開もフォローせず、「戦後近代主義」の誤解/曲解にたいする苦闘史にも「われ関せず縁」であろう。それでいて「ヴェーバー通」として「専門家」の門を叩き、「ヴェーバーの誤謬」を暴いて回る(もしほんとうに、学問的にそうして問題提起してくれるのなら、たいへん有り難い話であるが)とうそぶくのであるから、恐れ入る。

 羽入が「戦後近代主義」のパースペクティーフを乗り越えていないばかりか、その「縮小再生産」の体もなしていないことは、すでに明らかであろう。羽入は、「倫理」論文についても、その主題にさえ無頓着に、「問題提起」章冒頭の二/三の箇所に視野を狭め、ましてや「世界宗教の経済倫理」シリーズとなると「『倫理』論文からの逃走」と決めてかかって一顧だにしない。こういう極端な視野狭窄は、それ自体としては、たんなる不勉強の糊塗しがたい露顕にすぎないであろうが、それだけに「戦後近代主義」におけるパースペクティーフの狭隘化を無自覚に引き継いでおり、当の狭隘化が先細りしていきついた極ともいえよう。

 しかし他面、羽入は、ポピュリストとしてもっぱら政治的な耳目聳動と「寵児」願望の充足をめざし、学問上は「ヴェーバー打倒/否定」以外、なんの目標ももっていない。こうした観念形態の持ち主が、学問の正道に立ち帰れずに、(西洋近代文明の外縁「マージナル・エリア」に固有の)あの磁場に引き寄せられるとき、あの「同位対立」から一足先に「自己中心主義」「自文化中心主義」に行き着き、「戦後近代主義」を「大塚久雄信仰というかたくなな日本の学界(空気)」(『Voice』、20041月号、196ぺージ)と捉えて、これにたいする反感をつのらせ、あらわにもしている政治的イデオローグたちから、「寵児」願望を刺激/操作され、そうした方向の組織化に編入されて、容易に「同位対立」の「自文化中心主義」ないし「反西洋主義」に走り、そのイデオローグとして立ち現れることも、「ありそうなこと」「客観的に可能なこと」として予測の範囲に入れておかなければならない。

 

つづく。前回の「理念型」論につづき、今回は、「非合理的」という語の一用例から、「合理化」の多義性問題をめぐり「戦後日本のヴェーバー研究――回顧と展望」風のExkursに入り込んで、ずいぶん遠くまできてしまいました。批判は批判でも、羽入書の叙述にたいするnegativな詰め寄りばかりがつづくと、いいかげんうんざりもしてくるので、ときにはpositivExkurs でヴェーバー研究の広い裾野と周辺を展望してみるのも、いいのではないでしょうか。次稿で「批判結語(その3)」は締め括る予定です。)

 

 



[1] この点が、フランクリン文献の取り扱いをめぐる羽入書との対決から明らかにされた「理念型思考のダイナミズム」、ヴェーバーによってじっさいに駆使されている理念型的方法のひとつの再解釈、と見なされよう。

[2] 柴田/脇/安藤訳『ウェーバーとマルクス』、1949、弘文堂、39ぺージ。

[3] 矢野善郎『マックス・ヴェーバーの方法論的合理主義』2003、創文社、3-4ぺージ。

  ちなみに、「倫理」論文の初稿(1904-5)と改訂稿(1920)との関係については、さまざまな観点からさまざまな捉え返しがなされえよう。安藤英治の手堅い研究は、そうした問題提起と基礎資料の提供にかぎられていた。ところが、その後むしろ、初版で「原型」が確立し、改訂時には「枝葉末節」が付加されただけ、といわんばかりの「初版還元主義」が、(「初版の原文も参照している」という「衒学誇示」と秘かに結びついて)出回ってはいないか。初版では「純歴史的叙述」と規定されていた「倫理」論文が、改訂にいたる間の方法論的反省の深化と定式化を踏まえ、「類型論的方法の一適用例として捉え返され、「世界宗教の経済倫理の方法水準に引き上げられて相応の補注を施され、『宗教社会学論集』に収録される(確かに一面の)意義が、そうした流行の陰で看過されてはいないか。

[5] 本項の以下の叙述は、羽入書批判のかぎりでは、たった一語を捉えての論脈逸脱とも見られよう。しかし、批判の徹底をとおしてヴェーバー歴史・社会科学の関連側面に迫り、再解釈していく試みとしては、こちらのほうがむしろ重要で、ここで気軽に跳び越えるわけにはいかない。

[6] たとえば、加地伸行『儒教とは何か』、1990、中央公論社、41-2ぺージ、参照。

[7] 拙稿「マックス・ヴェーバーと『辺境革命』の問題」(『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌』、1969、未來社、291-323)他、参照。

[8] 拙著『ヴェーバー学のすすめ』、2003、未來社、第一章、参照。

[9] ちなみに、たとえば前注2と3に掲げたレーヴィットの古典的論文と矢野善郎の最近作とを、対照して読み比べられたい。

[10] この「間接的言及」問題には、1993年「ミュンヘン会議」の報告で、あえて論及し、ドイツ人学者の反響を期待したが、「エミール・デュルケームとマックス・ヴェーバー」という与えられた表題の影に隠れてしまったのか、関心を引かなかったようで残念である。Cf. Mommsen, WolfgangSchwentker, Wolfgang (Hg.), Max Weber und das moderne Japan, 1999, Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, S. 344-8. 邦訳は『ヴェーバーとともに40年――社会科学の古典を学ぶ』、1996、弘文堂、144-7